さいたま市立中央図書館所蔵

2024/12/27 大宮図書館より借入
2024/12/31 読書開始
2025/01/02 読了
2025/01/03 大宮図書館へ返却
新年早々しんどい読書である。著者自身の依存症(ではなくてアディクション)は「愛する人を殺しかねない、自分自身を殺しかねない」状態を回避するための術であったのか。
やめられなかったのだ、やめたくても、それが損害や痛みや危険をともなうものであっても。とすると、目に見える症状よりは、「やめたくてもやめられない」という不可解な自分の状態のほうが問題の本体ではないだろうか。その強迫性。
「依存症」とは、あくまで治療のために作り出された言葉だ。問題飲酒など、表面にあらわれた症状がよくなることをゴールとしている。しかし「症状がよくなる」とはゴールではなくて経過ではないのか。その人を「依存症」にまで押しやった力は、そのまま残っているのだから。さらに力はそのままに症状だけが見えにくくなっていくことは、ある意味で危険ではないだろうか。いきなり自殺したり他害へと爆発しかねないのだから。
発見されにくいことは危険だ。とりわけ自分自身に発見されにくいことは危険だ。依存症という言葉では何かが見えなくなる。わたしは何かが見えないままに、そして見えにくいからこそ、危険な状態を長く続けた。
わたしは今、依存症ではなく「アディクション」と言ってみたい。単なる言い換えではない。アディクションとは、自分が何かに強迫的にとらわれている状態すべてだ。コントロール不能のまま何かにとらわれていること、その不可解さも含めた全部の状態だ。(P.14-5)
そしてアディクションの本質は、
アディクションとは、それがどういうものであったとしても、当人が最初の生きづらさを緩和しようとして発見した「セルフ緩和ケア」であると思う。いちばん手に入りやすいもので、いちばん合うものを選択する。繰り返すが、そうやってこの世界の諸事に対応しようと一生懸命な彼らは、真面目な人たちである。
世界と折り合うために、セルフ緩和ケアによって「クッション」あるいは「緩衝帯」をつくる。アディクションとは、クッションが日常を圧迫しすぎた状態、あるいはクッションが日常を凌駕してしまった状態をいうのだと思う。そして、それだけつらかったということに他ならないと思う。(P.23)
そして著者は自分自身の問題を解決するためセラピストの施術を受ける。
セラピストはわたしの身体に触り、マッサージをしてよくほぐしてエネルギーを通し、それからわたしの話を聞いて、こう言った。
「あなたには、安全に狂う必要が、あります」
そして、
「まずはダイナミック瞑想、ニ一日間」(P.68)
解決策が、「瞑想」とはちょっと何だかなあとは思うが、脳や体を制御する術を持たない「意識」が過剰に備わっているヒトという種の哀しい性を考えれば、その過剰さを少しでも減ずる方法を採るのは理にかなっていよう。
ヒトは社会生活を営むことを前提として成立している種であるのだから、個々は常に「生きづらい」。そしてその「生きづらさ」を反復・増幅してしまう「意識」を持っているだけにやっかいだ。酒やクスリがその反復・増幅を抑え込む簡単な方法で身近にあるだけに耽溺する。
「安全に狂う」か…。そう。他人にも自分にも危害の及ばない方法で、過剰な「意識」を抑え込み、できるだけナチュラルに生命のもつ合理性と自然環境との相互関係に身を任せて生きていきたいものである。
安全に、狂う。