私たちは、世界を「見ている」のではなく、脳が作り上げた「解釈」の中に生きている。ジャッキー・ヒギンズの筆致は、古びた「五感」というパラダイムを鮮やかに打ち砕き、知覚が渦巻く未踏の領域へと誘う。
本書の核心、そして特に鋭く着目されたのは、マダコが教えてくれる「自己受容感覚(プロプリオセプション)」の神秘だろう。
脳の指令を待たず、独立した知性を持つかのように振る舞うタコの腕。その「奇妙な離婚状態」とも呼べる身体構造は、さながら地球外生命体のそれだ。しかし、この異形なる隣人の姿こそが、我々自身の肉体に潜む「内なる操り人形師」の正体を暴き出す。
我々はなぜ、目を閉じていても自分の手足の位置がわかり、それを「自分のもの」と確信できるのか。意識の光が届かない暗闇で、筋肉と神経が絶え間なく交わしている対話——この「自己受容感覚」が失われれば、人間はたちまち自らの肉体から切り離され、幽体離脱のような虚無へと放り出される。著者は、動物たちの驚異的な感覚を鏡にすることで、当たり前すぎて見過ごしていた「人間であることの生物学的基盤」を、これ以上ないほどドラマチックに描き出している。
さらに、モンハナシャコが見る色彩の嵐や、渡り鳥が感知する磁気の世界。それら「環世界(ウムヴェルト)」の多様性に触れるとき、読者は気づかされるはずだ。人間が捉えている現実は、膨大な情報のほんの一片に過ぎないということを。
しかし、本書は決して人間を卑小化するものではない。むしろ、これほどまでに限定的な知覚情報を、脳という装置を用いて豊かな「意味」へと編み上げていく人間の想像力、そのセンス・オブ・ワンダーを祝福しているのだ。
科学の厳密さと文学的な詩情が、かつてない高次元で融合した一冊。読み終えたとき、あなたの指先が触れる紙の感触、そして自身の肉体の存在そのものが、昨日までとは全く異なる重みを持って感られるに違いない。