ページをめくる手が、脂汗で湿るような感覚を覚えたことはあるだろうか。
アグスティナ・バステリカの『肉は美し』は、まさに読者の倫理観を「屠畜」し、解体台の上に晒け出すような、戦慄のディストピア小説である。
舞台は、動物の肉がウイルス汚染により食せなくなり、政府が「人肉食」を合法化した世界。そこでは人間が「家畜」として繁殖・飼育され、食卓に上る。この地獄のような設定以上に恐ろしいのは、社会全体がそれを「遷移(移行)」と呼び、家畜化された人間を決して「人間」とは呼ばず、「頭(ヘッド)」と呼んで処理する——その徹底された「言葉の隠蔽」である。
主人公マルコスは食肉工場の管理職として、日々淡々と「処理」を監督している。彼が直面しているのは、物理的な虐殺だけでなく、「要約し、分類する言葉。うつろな言葉」によって、目の前の悲劇をシステムの一部へと書き換えていく社会の欺瞞だ。
物語の核心は、マルコスが極上の「雌」の家畜をギフトとして受け取るところから動き出す。彼は彼女に「ジャスミン」と名付け、禁忌であるはずの個人的な愛着を抱き始める。読者はここに、狂った世界における唯一の「人間性の回復」という希望を見出すかもしれない。彼が彼女の腹に宿った命を愛おしむ姿は、亡くした息子への愛を投影しているようにも見えるからだ。
だが、著者はその甘い期待を、ラスト数行で完膚なきまでに打ち砕く。
妻が戻り、ジャスミンが出産を終えた瞬間、マルコスが下した冷徹な決断。ハンマーを振り下ろし、彼が放った「家畜なのに、人間みたいな目をしてた」という言葉。
この一言の破壊力は凄まじい。彼は決して「体制に抗う人間」などではなかった。彼もまた、自分にとって都合の良い「線引き」を行い、愛着さえも消費する、この「野蛮な資本主義(訳者あとがき)」のシステムそのものだったのだ。
訳者あとがきで触れられている通り、本書は単なるカニバリズム・ホラーではない。言葉を奪い、定義を書き換えることで、隣人を「肉」へと変えてしまう——私たちが知らず知らずのうちに加担しているかもしれない、現代社会の残酷な構造そのものを描いている。
読み終えた後、自分の肌さえもが、ただの「肉」に見えてくるような、美しくも悍ましい悪夢。この結末の衝撃は、しばらくの間、網膜から消えることはないだろう。